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 杜甫
  漂泊の詩


1026 泊岳陽楼   


1028 登岳陽樓 (江陵を発つ)
大暦3年768年57歳

登岳陽樓    唐 杜甫
昔聞洞庭水,今上岳陽樓。
呉楚東南?,乾坤日夜浮。
親朋無一字,老病有孤舟。
戎馬關山北,憑軒涕泗流。
洞庭湖

岳陽樓に 登る
昔 聞く  洞庭の水,
今 上(のぼ)る  岳陽樓。
呉楚  東南に ?(さ)け,
乾坤 日夜  浮かぶ。
親朋  一字 無く,
老病  孤舟 有り。
戎馬(じゅうば) 關山の北,
軒に憑(よ)りて  涕泗(ていし) 流る。

かねて名高い洞庭湖を
いま  岳陽楼に上ってみはるかす
呉楚の地は  東と南に引き裂かれ
太陽と月は   昼夜湖上に浮かび時は流れる
親しい者から  一通のたよりもなく
老いた身に   小舟がひとつ
勾欄に?りかかって関山の北
戎馬を思えば  とめどなく涙は流れる

詩の背景
岳州の渡津に舟をつけると、杜甫はすぐに岳陽楼に上ったようです。岳陽城は洞庭湖の湖口東岸にあって、岳陽楼は城壁の西門上に聳える三層楼でした。西南の眼下に洞庭湖を見渡すことができます。
 この五言律詩は、杜甫の名作のひとつに数えられています。首聯から対句を用い、前半四句は岳陽楼からの眺め、というよりも位置づけを雄大に詠います。「呉楚 東南に?け」は方角的に難解ですが、洞庭湖が古代の呉と楚の国を東と南に分けていたと、大きく言うものでしょう。「乾坤 日夜浮かぶ」の乾坤は太陽と月のことで、洞庭湖の湖上に太陽と月が交互に浮かんで時は流れてゆくと、悠久の天地のいとなみの大きさを詠います。
 後半四句は感慨を述べるもので、前回の詩で「難危 気益々増す」と自分を鼓舞してみても、家族をひきつれての漂泊の旅はこころもとなく、戦乱の世を哀しむのでした。すでに安史の乱は終わっていましたが、この年の八月に吐蕃の兵が鳳翔(長安の西)に侵入し、関門の北の「戎馬」(兵乱)は収まっていませんでした。 


詩の解説
登岳陽樓:岳陽樓に登る。 ・岳陽樓:湖南省岳陽市市街の北西、岳陽城の西城門上の楼閣。楼は、三層二十メートルの黄色瑠璃瓦葺きで、各層の軒先が天に向かってぴんと跳ね上がった、特徴のある楼門で、「岳陽門」の額が掛けられている。








岳陽楼は、西は洞庭湖に臨み、遥か対岸の君山を望む。北は長江を扼しており、この場所はちょうど洞庭湖と長江の接点になっており、両方を抑えている。そのため、三国の呉の時代に水師(水軍)の閲兵台となり、後、唐代に楼閣が建てられた。やがて兵火に遭い、北宋時に再建された。多くの詩人に洞庭湖と倶に歌われた。
昔聞洞庭水:以前に(言い伝えで)聞いていた洞庭湖。 ・昔聞:以前に(言い伝えで)聞いていた洞庭湖に。 ・洞庭水:洞庭湖。
今上岳陽樓:(そして)今、実際に(洞庭湖畔の)岳陽樓にのぼる。 ・今上:今、(実際に)のぼる。
呉楚東南?:呉楚の地方は東南部分だ裂けていて。 *「呉楚 東南に?け」というよりも「呉楚  東南 ?け」の方がしっくりするが、ここは伝統に従う。 ・呉楚東南?:南国「呉楚」の地方は、東南部分が裂けて(洞庭湖となった)。 ・呉楚:長安の者にとっての遥かな南国。戦国時代の呉と楚の二国。現在の江蘇、浙江省と河南、湖北、湖南省になる。  ・東南:南東方向。南東の部分。 ・?:〔たく〕裂く。裂ける。割れ目。 *なお、この句の解釈は、「(洞庭湖によって)呉と楚は、東と南に分けられた」ともする。
乾坤日夜浮:天にある太陽と月が昼と夜で入れ替わって、湖水の上を常に浮かんでいる。 ・乾坤:けんこん天地。(日月、男女、陰陽)ただし、ここでは天にある太陽や月と取らないと意味が通じにくい。「乾坤」は、易の用語でもあり、「天地」というときよりも、抽象的な響きを持つ。 ・日夜浮:(太陽と月が入れ替わって)、湖水の上を常に浮かんでいる。『水經・湘水』註に「洞庭湖水廣五百餘里,日月若出沒其中。」
親朋無一字:親戚や朋友からの手紙は一文字すらなく。 ・親朋:親戚と朋友。 ・一字:短い手紙。一言の便り。
老病有孤舟:老いと病気の我が身一つである。 ・老病:ここでは、老いと病気。 ・孤舟:(ぽつんと)一つ(だけ)の小舟。孤独であるということを、湖上の景を兼ねていう。
戎馬關山北:戦闘が山の向こうでおこなわれており。 ・戎馬:〔じゅうば〕兵馬、軍馬。転じて、戦争。 ・關山:関所となる山々。故郷の周囲の山。
憑軒涕泗流:高殿に上り、欄干に寄りかかって、遠くを眺めやって物思いに耽ると、涙が止めどもなく流れてくる。 ・憑軒:手摺りによる。高殿に上り、欄干に寄りかかって、遠くを眺めやって物思いに耽ること。詩詞での慕情、望郷、詠史、慨世等の常套表現。 ・涕泗:〔ていし〕涙と鼻水。




1026 泊岳陽城下   杜甫

江国踰千里、山城近百層。
岸風翻夕浪、舟雪灑寒灯。
留滞才難尽、艱危気益増。
図南未可料、変化有鯤鵬。

岳陽城下に泊す
江国(こうこく)  踰(こ)ゆること千里
山城(さんじょう) 百層に近し
岸風(がんぷう)  夕浪(せきろう)を翻(ひるがえ)し
舟雪(しゅうせつ)  寒灯(かんとう)に灑(そそ)ぐ
留滞(りゅうたい) 才(さい)尽(つ)き難く
艱危(なんき)  気(き)益々増す
図南(となん)  未だ料(はか)る可からず
変化(へんか)   鯤鵬(こんほう)有り


江国踰千里:江国千里を越えてやってきた
山城近百層:山城は高さ百層に近い
岸風翻夕浪:岸の風は   夕浪をひるがえし
舟雪灑寒灯:雪は小舟の 寒灯に降り注ぐ
留滞才難尽:江南に滞在して 文才は尽きることなく
艱危気益増:艱難に遭っても  意気は盛んである
図南未可料:南を目指すが 前途はまだわからない
変化有鯤鵬:この世には   鯤鵬のような変化があるからだ


長江を下る途中、杜甫は公安(湖北省公安県)に上陸して、県尉の顔(がん)氏と長安時代の友人で書家の顧戒奢(こかいしゃ)の世話になりました。しかし、ほどなく顧戒奢は江西に赴任することになり、杜甫は公安に二か月あまり滞在して、冬も深まった年末に岳州(湖南省岳陽市)に着きました。
 この詩をみると、杜甫はとても元気なようです。詩文は湧くように生まれてくる。困難に遭っても意気はますます盛んであると詠っています。
 杜甫は最終的には故郷の洛陽に帰る気持ちがあったと思われます。しかし、詩では「図南 未だ料る可からず」と南下の意思を示しています。岳陽は北と南の分岐点で、洛陽に行くには長江をさらに180kmほど東北に下って漢陽(湖北省武漢市)から漢水にはいって遡行しなければなりません。ところが杜甫は、世の中には何があるかわからないと、『荘子』の説話を引いて南に向かおうとしているのです。


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