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杜甫李白を詠う
  ・贈李白[五言律排]
  ・贈李白[七言絶句]
  ・遣懐
  ・春日憶李白
  ・飲中八仙歌
  ・昔游
  ・冬日有懐李白

李白杜甫を詠う

はじめに
 杜甫の人生は詩に向かって、まじめに生きた人生です。生きるための術はなるようになる自分の詩は世界一だ。くじけない、めげないものでした。
 杜甫には、たくさんの詩が残されており、しかもそれらが註者らによって、年経過順に並べられていること、読んでいくと、杜甫のおかれている状況、杜甫の考えが見えてきます。このページではj十数種の作品を見ながら物語を始めます。
それでは杜詩を深く理解することはできません。のち、200首前後の「ものかたり」を紹介する予定です。


 杜詩は、自身の誠実さが息を引く最後まで続いている。人間として見ても杜詩を読んだ人の心に、深く、新しい感動を残してくれる。杜詩は時間空間を超えて人の心にあるものを引き出してうたってくれています。熟読をすればするほど、繰り返せば繰り返すほどひきつけられていきます。

 杜甫の詩は常に進化していきます。庶民、人々に対する気持ち、朝廷に対する気持ち、政治的な語り、白髪の表現法の変化、妻子に対する表現、それらすべて、味わいが深まり、詩の風格が進化しているのです。

 杜詩はまず、青年期、若い希望に満ちた詩を残しています。でもなぜか杜甫は士官に対し本気心が伝わりません。多くの詩人たちがそうであるように、王維にしても十代のころから士官を目指します。そして、落第した孟浩然ほか多くの文人たちは四十を境に士官をあきらめ故郷に帰ります。
 杜甫の場合はこれが当てはまりません。この疑問を抱かせるのはまず、官吏の中であまり評判のよくない人物たちとの交遊です。次に、士官活動を懸命にやり始めたのが、李林甫に権力集中されてからなのです。文人を徹底的に排除した有名な宰相です。及第させない宰相のもとで、どんなに有力なコネクションでも通じなかったのです。

 そこで、妻子を実家に預けます。そための寒い厳しい旅、敵の目を盗んで死ぬ思いで脱出したこと。
いろいろな苦しい出来事、自分が置かれた立場から見ると庶民の苦しい生活をほっとけない、そのためにその状況を詳らかに詠います。一方、目指していた士官がかなわない。


 最高の華やいだ気持ちの詩があります。あまり有名ではないのですが一首だけあります。しかし、この最高点から一気に「官を辞す」事にします。ここから杜詩はガラッと変化していきますが、この時期の変化の激しさはすさまじいものです。秦州で過ごす間までに、朝廷からの召喚を期待していました。
 召喚がないとわかって、杜甫は、後になって二度としたくないといった同谷紀行、成都紀行を経て、成都浣花渓に草堂を新築します。過去の文献でこの時期最も安定した時期といわれていますが、ここでも戦火が近まり、長江を下って、菱州に船でむかいます。
 菱州では猛烈なスピードでそれまで書き溜めた詩賦を整理し、その上、新たな詩をたくさん書いています。そして、叛乱によりここでも長居はできません。さらに南下し漂泊の中で死を迎えます。
 士官かなって最高潮の気分までの時期、最高時から秦州から同谷紀行に旅立つまでの時期、2紀行時期、成都浣花渓での時期、菱州寓居を中心にした時期、そこを旅たち、漂泊の中で詩を迎えるまでの時期、ということになります。これを杜甫の詩の違いによって、分けると次の通りです。
1.青年期、
2.就活期、
3.安史の乱による激動期、4.人生至福から奈落の時期、
5.秦州発までの時期 
6.同谷・成都紀行 
7.成都浣花渓草堂 
8.菱州寓居、
9、漂泊の旅の中で
ここでは、その時期と年齢を追って杜甫の人生を見ていきましょう。

一般的区分は@青年期と士官を目指す時期
A安史の乱翻弄期
B成都での安定期
C南国漂泊期 というものです。

 ただ、このページでは、9つに区分しますが、大別すると、杜甫のエポックメーキングは、一般に言われる4時期ではなく「ひとつ」です。前の9区分でいう4の時期にあたります。
 このことについては別の講でふれたいと思います。(杜甫私記)
 杜甫の物語としてとくに青年期において「壮遊」「昔遊」などが用いられますが、
 昭和の杜詩研究の第一人者、吉川幸次郎がその著書『杜甫私記」第1巻昭和25年3月15日発行で「もはや『壮遊』の詩のみによって、長安十年の生活をを語るべきでない。」直接杜甫の描いたいろいろな詩によってのみ語るべきである。
 このページはそれに従っているのは言うまでもない。しかし吉川氏は杜詩を4時期に区分されるとしています。ここではそのことを指摘しておくのみとし、このサイトに示す杜甫私記にエポックメーキングについて述べたいと考えています。
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作品で語る、杜甫の人生

1.青年期、
  遊龍門奉先寺

  望 嶽

2.就活期
 李白に遭遇する前
 その後(長男が生まれて以降)

 安禄山の叛乱を察知していた?
3.安史の乱による激動期
 反乱軍に捕まる

 軟禁の中で

 脱出

 

4.人生至福から奈落の時期

5.秦州発までの時期 

6.同谷・成都紀行 

7.成都浣花渓草堂 

8.菱州寓居、


9、漂泊の旅の中で
 杜甫のものがたり

杜甫ものがたり  


作品で語る、杜甫の人生 (杜甫がよくわかる)


77 青年期 78李白と遭遇 158 若き思いで 李白と別離後
李白を詠う12 81叛乱軍に捕縛 82左遷、苦悩 83官を辞すV
199三吏三別 84 秦州の詩 同谷成都紀行 90成都草堂
92成都草堂2 雲南・菱州 漂泊・洞庭湖 お問い合わせ


1.青年期、
・ 18歳になると洛陽で盛り場に出入りし、遊んでいました。
このころまで朝廷では玄宗が即位して以降、張説が文人として節度ある政治をおこなっていました。もっとも周辺諸国に対しても小競り合いを含め100年くらいで大強国化したのは、太宗(李世民)、則天武后の政治力によるものが大きかった。都はこのころは、長安が首都ですが、則天武后は、洛陽でも半分過ごしたために、東の都としていました。洛陽も古い町で身分制、血筋を重んじる時代ですから、杜甫も自慢できる祖先をもつ関係で、洛陽で血筋の良い若者同士で遊んだようです。中国では唐時代の数百年前から律令体制であり、基本的に貴族は世襲されていた。文人や、軍人の採用に関しては試験と血縁、権力者、知識人を頼って登用されました。杜甫は試験より血筋と縁者を頼りにして、少し見下すところがあったようです。
開元22年(734)23歳呉越(江蘇・浙江)に遊ぶ。鞏県で郷試(ごうし)を受けて及第。
開元23年(735)24歳呉越より洛陽に帰り、進士の試験に応ずるも及第せず
開元24年(736)25歳試験で戻ってから1年余り洛陽で過ごします。蘇源明と洛陽の東南、伊河に臨む名勝龍門の奉先寺にて遊ぶ。龍門の奉先寺奉先寺は龍門最大の石屈寺院で、則天武后を模したという高さ17mの廬舎那仏は (761)に完成しています。石屈には数十年以上かかるとされていますので、杜甫が訪れたころは建設の途上であった。
 遊龍門奉先寺
 已従招提遊、更宿招提境。陰壑生虚籟、月林散清影。
 天闕象緯逼、雲臥衣裳冷。欲覚聞晨鐘、令人発深省。
(わたしは今日このお寺さんに遊んだばかりではなく、さらにこのお寺さんの境内に宿ることにした。山の北側の谷には風がうつろな響きを立てて湧き起こり、月下の林には清らかな光が散乱している。
天の宮門かと怪しまれるこの山の上には星のよこ糸が間近に垂れ下がり、雲のなかに身を横たえていると着物も冷ややかに感ぜられる。目覚めようとするころに朝の鐘の音が聞こえてきたが、それは聞く者に深い悟りの念を起こさせずにおかない。)
 この詩は杜甫のもっとも得意とする古詩です。これまで通常、詩は八句のうち前半四句を叙景もしくは叙事にあて、後半四句を感懐にあてる形式だったのですが、杜甫ははじめの二句を導入部、中四句を事柄の描写、最後の二句を結びの感懐に充てる形式をとっています。杜甫はこの形を好みました。
 杜甫の特徴は題材の大きさにあり、場面の移り代わりが心の中に及んでいくことの見事さにあると思います。

 四年間にわたる斉魯の旅が長くできたのは、袁州の父の官舎に滞在したからです。袁州は、遊ぶにはもってこいのところで、昔から「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれ,東に孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西に水滸伝ゆかりの「梁山泊」があり、北には「泰山」がそびえ、南には「微山湖」を望めます。また、「杜甫」ゆかりの地である少陵台もこの地にあります。北岱といわれるように袁州から北80kmに泰山があり、足を延したのです。「望嶽」は杜甫の残された作品の中では初期の名作とされています。また、みなぎる若さ満ち溢れる詩といえます。

 望嶽(岱宗夫如何)
 岱宗夫如何,齊魯青未了。造化鍾神秀,陰陽割昏曉。
 盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。會當凌絶頂,一覽衆山小。
泰山はどんな山か,斉魯にまたがり緑はどこまでもつづく
天地万物の理はすぐれた妙をあつめ,太陽と月が朝と夕べを分ける
胸を時めかせ曾雲が湧き,眥を決するなか鳥がねぐらに帰ってゆく
いつの日かきっと山頂をきわめ,群小の山を見おろすであろう

 高大な山、泰山を望む。また、四方の群小の山々を見下ろす泰山のようになりたいと願う。
 杜甫の後期の詩には見られない若さあふれるの詩風です。 この詩もはじめの二句を導入部、中四句を事柄の描写、最後の二句を結びの感懐に充てる形式をとっています。・高大な山、五岳の長である泰山からながめる。そうありたいと願う。つまり、四方の群小の山々を見下ろす泰山のようになりたいと願うのです。有り余る自分の才能を生かせば天下を見下ろせるようになると思っていたのです。






(741) 杜甫は開元二十九年のはじめに斉趙の旅から洛陽にもどり、河南府偃師(えんし)県の北郊、首陽山(しゅようざん)下の尸郷亭(しごうてい)に陸渾荘(りくこんそう)を営みました。陸渾荘を地名とする説もありますが、杜甫は家宅の名のように用いています。地名をもって家をいうことは現在でも行われていますので、いずれとも決め難いのですが、杜甫はその家を「尸郷の土室」と呼んで、窰洞(ヤオトン)でした。







● 杜甫の詩



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