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■ 女性詩人たち 雰囲気の柔らかい詩を書く詩人たち |
虞美人 王昭君 卓文君 劉細君 班u、 蔡炎 謝眺 上官婉兒 楊貴妃 薛濤 唐婉 魚玄機の詩 秋瑾 |
李 白 楊貴妃を詠う 李白 王昭君 二首 白楽天 楊貴妃を詠う ・白楽天王昭君を詠う二首 四大美女の詩 |
・中国の世の変遷 時に詠う |
漢詩理解のための時代の解説 中国の時代と詩人のたち |
夏 前2205〜前1766 殷〔商] 前1766〜前1122 西周 前1020〜前770 【詩】『詩經』雅・頌等 前494〜前473 呉越の戦い 1.東周前 770〜前403 論語孔子(前551〜479) 〜前221 孟子もうし 前372〜前289 屈原くつげん 前340〜前278 伯夷 はくい 未詳 宋玉 そうぎょく 未詳 荊軻 けいか 未詳-前227 呉越の戦い 西施ものがたり 2.秦 前221〜前206 皇帝 万里の長城増築 項籍(項羽)前232〜前202] 虞美人ぐびじん未詳〜前202 ●前206 鴻門の会 前漢 前202〜8 王昭君 生没年未詳 高祖(劉邦)前247〜前195 枚乘ばいじよう前220-前140 東方朔さく 前154年〜前92年 漢-武帝 (劉徹)前156〜前87 劉細君りゅう 生没年不明: 李 陵りりょう未詳- 前74年 蘇武 そぶ前140ころ〜前60 3.新 8〜23 卓文君(たくぶんくん)未詳 楊雄(ようゆう) B53〜A18 班彪(はんひょう)A3〜54 後漢25〜220 梁 184〜280 李延年(生没年不詳) 張角(ちょうかく)未詳〜184 蔡邑(さいよう)132- 192) 趙壹(ちょういち)卒年不詳 禰衡(でい こう173年−199年 関羽(かんう)(未詳〜219) 班u、(はんしょうよ)未詳 梁鴻(りょうこう)生没不明 |
三国時代
武帝曹操そうそう155〜220
文帝曹丕(そうひ)187〜226
曹植(そうしょく)192〜232
繁欽(はんきん) 未詳
蔡炎(さいえん)177 - 239
繆襲(きょうしゅう) 186〜245
3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
応擧(おうきょ) 190〜252
1)阮籍(げんせき)210〜263
2)惠康(けいこう)223〜262
3)山濤(さんとう)205〜283
4)劉伶りゅうれい)211〜300
5)阮咸(げんかん)210〜263
6)向秀しょうしゅう227〜272
7)王戎おうじゅう 234〜305
孫楚そん そ 未詳〜293
張華ちょうか 232年 - 300年
張協ちょうきょう 未詳〜307
潘岳(はんがく247年〜300年
左思 さし 250頃〜305頃
陸機(りく き)261年 - 303年
陸雲(りくうん262年 - 303年
潘尼(はんに 約250〜約311
4.五胡十六国
東晋 317〜420
元帝 (東晋)276年 〜322年
王羲之おうぎし 303〜361
僧肇(そうじょう 374―414
宋 420〜479 永明体
謝霊運しゃれいうん385〜433
顔 延之(がんえんし384〜456
北魏386〜535
鮑照 ほうしょう 412 頃-466
斉 420〜479 永明体
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人
B謝兆(しゃちょう) 464年 - 499
鮑令暉 ほうれいこん生卒年不詳。
F任 ム(じん ぼう) 460年 - 508
A沈約(しんやく) 441年 - 513
C王融 おうゆう 467年 - 493
蘇小小 そしょうしょう 未詳
孔稚珪 こうちけい 447〜501
刑邵(けいしょう) 496〜561
斛律金(こくりつきん) 488年 - 567
鍾エ(しょうえい) 469〜518
梁 502〜557
@蕭衍(えん)梁武帝 464〜549
E范雲 はんうん 451年 - 503
何遜(かそん) 未詳〜518
王籍 おうせき 502〜519
G陸垂(りくすい) 未詳
D蕭陳(しょうちん) 未詳
萸信(ゆしん) 513年- 581
王褒(おうほう) 513〜576
徐 陵(じょ りょう) 507年 - 583
陳 557〜589
陳後主(ちんこうしゅ)582年 - 589
陰鏗(いんけん) (未詳〜未詳)
隋が中国全土統一
隋 581〜618
楊 素(よう そ 未詳- 606年
薛道衡(せつどうこう540年 - 609
観徳王・楊雄(よう ゆう542 - 612
魏徴ぎちょう 580年 - 643年
上官儀 じょうかんぎ608 - 665年
王勃 おうぼつ @ 650年 - 676年
盧照鄰 ろしょうりんB 生没年未詳。
駱賓王 らくひんおうC640 - 684年頃
(劉希夷)・りゅうきい)651年- 679年
楊炯 ようけい A生年不詳−692年
陳子昴(ちんすこう) 661年 - 702年
上官婉兒じょうかんえんじ664年 - 710
宋之問 そうしもん 652〜712
沈栓期 しんせんき 656頃 - 716頃
張若虚ちょうじゃくきょ 未詳 〜 711
包融 ほうゆう 生没年未詳。
王翰 おうかん 687年 - 726年
蘇廷 そてい 670年 - 727年
張説 ちょうえつ 667年 - 730年
張九齢 ちょうきゅうれい678 - 740年
樓穎 ろうえい760 生没年不詳
趙瑕 ちょうか
富弼(ふひつ 未詳〜1083
杜秉(とへい)
上代から隋までの詩人 |
秦 前221〜前206 始皇帝 万里の長城増築 | |||
鴻門の会: 前206年 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。 |
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10 |
項籍(項羽) | (こうそく・こうう) | 前232〜前202 |
中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。 | 垓下歌 | ||
11 | 虞美人 | (ぐびじん) | 未詳〜前202 |
秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。 | 虞美人歌 (漢兵 已略地) |
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前漢 前202〜 8 前154 呉蘇七国の乱 | |||
12 | 王昭君 | 生没年未詳 | |
中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題材となった。 王昭君ものがたり | 昭君怨 王昭君 | ||
13 | 高祖(劉邦) | (こうそ・りゅうほう) | 前247〜前195 |
前漢の初代皇帝。在位、前206〜前195。字(あざな)は季。廟号(びょうごう)は高祖。沛(はい)県(江蘇省)の人。始皇帝没後の前209年、陳勝・呉広の乱を機に挙兵。前202年、項羽を垓下の戦いに破って天下を統一、長安を都として漢朝を創始 | 大風歌 | ||
14 | 枚乘( ばいじよう ). | 220-前140 | |
枚乘 ( ばいじよう ). 枚乗(?-前140)。漢の時代、淮陰(わいいん=現在の江蘇省淮陰県東南)の人。字(あざな)は叔。初め呉王劉助Aに仕え、上書して諌めたが納れられず、 去って孝王劉武に仕えた | |||
15 | 東方朔 | (とうほう さく) | 前154- 前92年 |
東方 朔(とうほう さく、紀元前154年 -紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。詩仙として有名な李白は彼のことを「世人不識東方朔、大?金門是謫仙」といって彼を褒め称えた。 | |||
16 | 漢-武帝(劉徹) | りゅうてつ | 前156〜前87 |
前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。 | 秋風辭 | ||
17 | 劉細君 | (りゅうさいくん ) | 生没年不明: |
字:前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がされ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。 | 悲愁歌 | ||
18 | 李 陵 | (りりょう) | 未詳- 前74年 |
中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。 | 與蘇武詩 別歌 與蘇武詩其二 ;詠 懷詩 其十 |
||
19 | 蘇武 | (そぶ) | 前140〜前60 |
中国、前漢の武将。杜陵(とりょう)(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)に使節として行き、19年間抑留されたが、節を守りとおして帰国した。 | 詩(留別妻一首) 留別妻一首 別詩 |
ID | 詩人名 / 事項 | よみかな | 作品名 |
21 | 卓文君 | (たくぶんくん) | 未詳 |
前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。 | 白頭吟(皚如山上 雪) |
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22 | 楊雄 | (ようゆう) | 前53〜 18年 |
蜀郡成都の出身。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて文学を捨てて修学して多くの著作を行ない、『楊子法言』は『論語』に、『太玄経』は『易経』に倣って作られた。好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。王莽の簒奪後、門弟が符命の禁を破ったために自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。 | |||
23 | 班彪 | (はんひょう) | A3〜54 |
扶風郡安陵(陝西省咸陽市区)の出身。字は叔皮。名儒として知られ、王莽の敗死で長安が混乱すると安定に移ったが、隗囂に失望して竇融の幕下に加わると師友の礼を執られ、その章奏は光武帝からも嘉された。『史記』の欠を補うと称して『史記後伝』数十篇を著し、未完に終わったこの書は、後の『漢書』の基礎となった。班彪(はん ひょう、3年 -54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班况は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭がいる。 班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。『後漢書』に列伝が掲載されている。 |
ID | 詩人名 / 事項 | よみかな | 作品名 |