謝霊運の漢詩 訳注・解説
謝霊運の漢詩 訳注・解説 50首
謝靈運 東陽谿中贈答
可憐誰家婦,緑流洗素足。
明月在雲間,迢迢不可得。
可愛らしいのは、どの家にいる婦人か、澄み切った流に、白い足を洗っている。
明月は、雲のむこうにあるもの、遥か彼方の存在だから、手にいれることはできない。
東陽谿中 贈答
憐れむ 可(べし) 誰(た)が家の 婦(おんな)ぞ,?流に 素足を 洗ふ。
明月 雲間に 在り,迢迢(ちょうちょう)として 得 可(べ)からず。
可憐誰家婦、縁流洗素足。
可愛らしいのは、どの家にいる婦人か、澄み切った流に、白い足を洗っている。
・可憐 愛すべき。可愛らしい。 ・誰家 どこの。 ・婦 おんな。 ・?流:谷川の流れに沿って。 ・洗 あらう。 ・素足 白い足。 ・素:白い。
明月在雲間、迢迢不可得。
明月は、雲のむこうにあるもの、遥か彼方の存在だから、手にいれることはできない。
・明月 澄みわたった月。 ・雲間:雲の間。 ・迢迢 (ちょうちょう) 遥か。遠い。高い。 ・不可得 得ることができない。
作者:謝靈運
昭明文選・卷二十二
遊赤石進帆海
首夏猶清和,芳草亦未歇。
水宿淹晨暮,陰霞?興沒。
周覽倦瀛?,況乃陵窮髮。
川后時安流,天?靜不發。
揚帆采石華,挂席拾海月。』
溟漲無端倪,?舟有超越。
仲連輕齊組,子牟眷魏闕。
矜名道不足,適己物可忽。
請附任公言,終然謝天伐。』
首夏【しょか】猶お 清和にして,芳草も亦た 歇【や】まず。
水に宿り 晨暮【しんぼ】に淹【とど】まる,陰【かげ】る霞は ?々 興こり沒しぬ。
周覽し 瀛?【うみべ】に倦【う】む,況んや 乃ち窮髮【あれち】を陵るや。
川后【かわのかみ】は 時に流れを安んじ,天?【わだつみのかみ】は靜にして 發せず。
帆を揚げて石華【ところてん】を采り、席を掛【かか】げて 海月【たいらぎかい】を拾う。』
溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,?舟【かろきふね】は 超越する有り。
仲連【[魯]ちゅうれん】は齊組【せいそ】を輕んじ,子牟【[公]しぼう】は魏の闕を眷【した】い。
名に矜【ほこ】れば 道に足らず,己に適【かな】えば物も忽【わす】る可し。
請うらくは任公の言に附き,終然【つい】に天伐【はやくきられる】を謝【さ】らんことを。』
登池上樓
潛叫媚幽姿,飛鴻響遠音。
薄霄愧雲浮,棲川乍淵沈。
進コ智所拙,退耕力不任。
徇祿反窮海,臥痾對空林。
衾枕昧節候,襄開暫窺臨。
傾耳聆波瀾,舉目眺嶇欽。
初景革緒風,新陽改故陰。
池塘生春草,園柳變鳴禽。
祁祁傷幽歌,萋萋感楚吟。
索居易永久,離群羣處心。
持操豈獨古,無悶徴在今。
登石門最高頂
晨策尋絶壁,夕息在山棲。
疏峰抗高館,對嶺臨迴溪。
長林羅戸穴,積石擁基階。
連巖覺路塞,密竹使徑迷。
來人忘新術,去子惑故蹊。
活活夕流駛,檄檄夜猿啼。
沈冥豈別理,守道自不攜。
心契九秋幹,目翫三春夷。
居常以待終,處順故安排。
惜無同懷客,共登青雲梯。
從斤竹澗越嶺溪行
猿鳴誠知曙,谷幽光未顯。
巖下雲方合,花上露猶玄。
逶施傍隈奥,召遞陟径見。
過澗既視},登棧亦陵緬。
川渚婁逕復,乘流翫迴轉。
蘋萍泛沈深,菰蒲冒清淺。
企石邑飛泉,攀林適葉卷。
想見山阿人,薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結,折麻心莫展。
情用賞為美,事昧竟誰辨。
觀此遺物慮,一悟得所遣。
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謝霊運 385〜433南朝の宋420〜479の詩人。永明体。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。
六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。謝霊運の生まれ育ちを感じさせる詩が次の詩である。
會吟行
廬陵王墓下作
従遊京口北固應詔
述祖徳詩 二首(1)序
述祖徳詩 二首(2)其一
述祖徳詩 二首(3)其二
406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉(現浙江省温州市)の太守に左遷させられる。左遷の旅の途中の作品は、山水詩人として後世まで親しまれた作品が多い。
永初三年七月十六日之郡初発都 38歳
過始寧墅
富春渚
初往新安桐盧口
七里瀬
・
晩出西射堂
・
白石巌下經行田(白石巌下 行田を經ふ)永嘉の白石山。
・
種桑
・登水嘉惚マ山詩
・游嶺門山 (嶺門山に遊ぶ)
・郡の東山にて冥海を望む
・瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ 38歳
・過白岸亭
・登池上樓
・遊南亭
・游赤石進帆海詩謝霊運
・登江中孤嶼
・上戌の石?山に登る
・石門は永嘉に有り
・登石門最高頂
・石門巌上宿
・石門新營所住四面高山廻渓石瀬茂林修竹
・齊中讀書
・夜宿石門詩
・初去郡
在職1年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作を残した。
・ 田南樹園激流植援 39歳
・南樓の中にて遅つ所の客を望む
・於南山往北山經湖中瞻? 39歳
・石壁に招提精舎を立つ40歳
・石壁精舎還湖中作 40歳
・禄を辭する賦
424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。その後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った。
・ 東の道路に入るの詩44歳
・(1)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(2)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(3)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(4)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(5)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・従斤竹澗超嶺渓行
・石室山の詩
・初めて石首城を発す 44歳
・道路にて山中を憶 45歳
・入彭?湖口 45歳
再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川内史に任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。
・入華子岡是麻源第三谷 48歳
・歳暮 48歳