上代後漢三国鼎立

http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/   http://kanbun-iinkai.com http://3rd.geocities.jp/miz910yh/ http://kanbuniinkai7.dousetsu.com http://kanbuniinkai06.sitemix.jp/ http://kanbuniinkai.web.fc2.com/ http://kanbuniinkai12.dousetsu.com/ http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/ http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/ http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/   http://kanshi100x100.blog.fc2.com/   http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/ 

漢詩総合サイト


時代の変遷・概略 漢詩理解のための時代の解説一覧
 中国の時代と詩人のたち
上代から漢の詩人
孔子 孟子 屈原 宋玉 荊軻 項羽
から三国、隋の詩人
武帝 蘇武 王昭君 卓文君 蔡邑
曹操 曹丕 曹植 阮籍 陶淵明 

 唐宋時代と詩人
  ・初唐の詩人たち
魏徴 王勃 蘆照鄰 駱賓王 沈栓期 宗之問 上官儀 上官宛兒 劉希夷
  ・盛唐の詩人たち
張説 張九齢 賀知章 孟浩然 王維 裴迪 王昌齢  王翰 賈至 高適 李白 杜甫 岑參 王之渙 
  ・中唐の詩人たち
張謂 韋応物 劉張卿 孟郊 柳宗元 劉禹錫 白楽天 張継 顔真卿 元槇 薛濤
  ・晩唐の詩人たち
杜牧 李商隠 温庭均 高胼 曹松  魚玄機
 
 宋代から近代詩人
蘇東坡 欧陽脩 司馬光 晏殊 王安石 曹鞏 岳飛 陸游 朱熹 辛棄疾 高啓 秋瑾 

  女性詩人たち 
雰囲気の柔らかい詩を書く詩人たち

 ・王昭君  卓文君 劉細君
 白楽天 王昭君を詠う二首
 ・班u、  蔡炎  謝眺
 ・上官宛兒   楊貴妃
 ・薛濤(せつとう)  唐宛
 ・魚玄機の詩   秋瑾





杜甫・王維・李白の生きた時代:関連年賦

○安史の乱と3詩人

杜詩研究

●杜詩研究

○ 杜甫詩 1411首
  ・ 年賦・詩の時系序列
○ 杜甫 詩目次と詩のタイトル
○ 杜甫アウトライン
○ 杜甫ものがたり
○ 杜甫 李白を詠う

◎ 青年期と李白と遭遇期
◎ 李白と別離仕官叶う期
◎ 漂泊の旅情期

○ 杜甫私記
○ 杜詩研究

 杜甫の人生(一般論)
  吉川幸次郎『杜甫ノート」の要約
 杜甫間違った士官の
 杜詩『白髪の詩」の変遷
 杜詩「政治的発言」変化
 杜詩「愛すべき詩」
  中国詩史上初、妻を愛す詩
 杜詩「自然への愛」
 杜詩「抑圧された人への愛」
  中国詩史上初、社会で抑圧された人を詠う
 杜詩「調子に乗ってしまった?」
 杜甫の人生
  杜詩の画期的時期につぃて

◎ 杜甫 李白を詠う
  ・贈李白[五言律排]
  ・贈李白[七言絶句]
  ・遣懐
  ・春日憶李白
  ・飲中八仙歌
  ・昔游
  ・冬日有懐李白



王維の詩

● 王維詩研究

  ・ 王維詩 
    年賦・詩の時系序列
○ 王維 詩目次と詩のタイトル
○ 王維詩アウトライン
○ 王維ものがたり(一般論)
○ 王維ものがたり(画期的時期)研究
   王維 罔川集 20首


李白の詩
■ 李白の詩
 ◎ 李白杜甫を詠う
漢詩総合サイト

漢詩ジオシティーズ倶楽部

漢文委員会 fc2支部

漢詩総合サイト

http://kanbuniinkai7.dousetsu.com





詩経
詩経の詩は、三百五篇(題は311)存在します。ほとんどが一句四字の四言詩です。五言詩、七言詩はもっと後世になって確立します。

 詩の内容から、
@各地の民謡を集めた「風(ふう)」
A 貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」
B 朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」
の3つに大別されます。




■上代の詩人
夏        前2205〜前1766
殷〔商]   前1766〜前1122
西周      前1020〜前770
    【詩】『詩經』雅・頌等
    前494〜前473  呉越の戦い
1.東周春秋前 770〜前403
 論語孔子(前551〜479)
   戦国         前403〜前221
 孟子もうし 前372〜前289
 屈原くつげん 前340〜前278
 伯夷 はくい   未詳
 宋玉 そうぎょく 未詳
 荊軻 けいか 未詳-前227 

2. 前221〜前206
 皇帝 万里の長城増築
 項籍(項羽)前232〜前202]
 虞美人ぐびじん未詳〜前202
 前206 鴻門の会
 前漢 前202〜8
 王昭君   生没年未詳
 高祖(劉邦)前247〜前195
 枚乘ばいじよう前220-前140
 東方朔さく 前154年〜前92年
 漢-武帝 (劉徹)前156〜前87
 劉細君りゅう 生没年不明:
 李 陵りりょう未詳- 前74年
 蘇武 そぶ前140ころ〜前60
3.新 8〜23
 卓文君(たくぶんくん)未詳
 楊雄(ようゆう) B53〜A18
 班彪(はんひょう)A3〜54

 後漢 25〜220 
 李延年(生没年不詳)
 張角(ちょうかく)未詳〜184
 蔡邑(さいよう)132- 192)
 趙壹(ちょういち)卒年不詳
 禰衡(でい こう173年−199年
 関羽(かんう)(未詳〜219)
 班u、(はんしょうよ)未詳
 梁鴻(りょうこう)生没不明

 魏 184〜280
 武帝曹操そうそう155〜220
 文帝曹丕(そうひ)187〜226
 曹植(そうしょく)192〜232
 繁欽(はんきん)  未詳
 蔡炎(さいえん)177 - 239
 繆襲(きょうしゅう)186〜245
黄巾の乱
230頃 竹林の七賢
 3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
 応擧(おうきょ)   190〜252
 1) 阮籍(げんせき)210〜263
 2)惠康(けいこう)223〜262
 3)山濤(さんとう)205〜283
 4)劉伶りゅうれい)211〜300
 5)阮咸(げんかん)210〜263
 6)向秀しょうしゅう227〜272
 7)王戎おうじゅう  234〜305
 孫楚そん そ       未詳〜293
 張華         232年 - 300年
 張協             未詳〜307
 潘岳(はんがく 247年〜300年
 左思 さし    250頃〜305頃
 陸機(りく き)261年 - 303年
 陸雲(りくうん262年 - 303年
 潘尼(はんに   約250〜約311

4.五胡十六国
     301頃〜439

 東晋 317〜420
 元帝 (東晋) 276年 〜322年
 王羲之      303〜361
 陶淵明(陶潜)  365〜427
 僧肇(そうじょう 374―414
   420〜479 永明体
 謝霊運      385〜433
 顔 延之(がんえんし384〜456
 北魏386〜535
  鮑照           412 頃-466
   420〜479 永明体
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人
  B謝兆(しゃちょう)  464年 - 499
  鮑令暉 生卒年不詳。
  F任 ム(じん ぼう) 460年 - 508
  A沈約(しんやく)  441年 - 513
  C王融         467年 - 493
  蘇小            未詳
  孔稚珪           447〜501
  刑邵(けいしょう)    496〜561
  斛律金(こくりつきん) 488年 - 567
  鍾エ(しょうえい)    469〜518
   502〜557
  @蕭衍(えん)梁武帝 464〜549
  E范雲         451年 - 503
  何遜(かそん)       未詳〜518
  王籍            502〜519
  G陸?(りくすい)
  D蕭? (しょうちん)
  萸信(ゆしん)      513年- 581
  王褒(おうほう)     513〜576
  徐 陵(じょ りょう)  507年 - 583

   557〜589
  陳後主(ちんこうしゅ)582年 - 589
  陰鏗(いんけん)  (未詳未詳)

隋が中国全土統一
 581〜618
  楊 素(よう そ   未詳- 606年
  薛道衡(せつどうこう540年 - 609
  観徳王・楊雄(よう ゆう542 - 612

























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































トップ > 唐・宋時代の詩人 > 上代 初唐の詩人たち  -盛唐の詩人たち-中唐の詩人たち-晩唐の詩人たち 

上代後漢三国鼎立までの詩人



 前2205-前1766
 前1766-前1122 ページ先頭

前1020-前221
西周  前1020〜前 770
東周

前770-前221
春秋 前770-前403
戦国 前403-前221

前202-220

 184〜280
 222-280
 221-263



■ 東周春秋戦国 前770〜前221
ID 詩人名  よみかな/ 事項 作品名
詩】『詩經』雅・頌等
 

「詩経」
子曰 詩三百 一言以蔽之。曰 思無邪。 子曰く、詩三百、一言もってこれを蔽う。曰く、思い邪なし。

書経
書経(しょきょう)または尚書(しょうしょ)は、政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。

管仲  (管子)
管仲の尊称。 中国古代の政治論文集。管仲の著と伝えられるが、一人の作ではなく戦国時代から漢代にかけて成立したとみられる。現存七六編。経済政策や富国強兵策などを記す。
 01 孔子  (前551〜479)
 本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁?、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。 論語

老子
老子は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。『老子』或は『老子道徳経』を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。

墨子 生没年不詳
墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450〜390頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。

荘子
生没年は厳密には不明だが、紀元前369年 - 紀元前286年と推定されている)は、中国の戦国時代の宋国の蒙(現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。
 02 孟子 前372年 -前289年
 本名は孟軻。字は子輿、または子車、子居ともいう。鄒の人。子思の門人に学び、孔子の学問をきわめた。  
 03 屈原 (くつげん) 前340頃〜前278
中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じたという。 「楚辞」に約20編の
詩がある。「離騒」
「九歌」「天問」「九
章」
 04 伯夷 (はくい)   未詳
伯夷・叔斉  孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔した。民衆の存在を無視した行為はあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。 采薇歌
 05 宋玉 (そうぎょく)   未詳
中国、戦国時代、楚(そ)の文人。楚王に仕え、のち落魄の生涯を送ったといわれるが、生没年・伝記ともに未詳。屈原の弟子とされる。 「九弁」(「楚辞章句」所収)「高唐賦」「神女賦」「対楚王問」
 06 荊軻     けいか  未詳-前227
(戦国)斉の人。後に衛に移り、燕にゆく。読書撃剣を好み、高漸離の徒を友とし、日々燕市に飲む。燕太子丹これを客とし、秦王を劫して諸侯に侵地をかえさしめようとした。軻は前に罪を受けて燕に亡命していた秦将契於期の首と燕の督克(賞)の地図とを請うて行く。時に賓客みな白衣冠をつけてこれを送った。軻既に至り、七首をもって秦王を刺したが、あたらずして、殺された。史記巻八十六にその伝を載せている。(もん) 易水歌
歌一首


 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263

■  秦 前漢  
秦(しん、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。

前202-220


鴻門の会: 前206年
 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。
秦    前221〜前206   始皇帝   万里の長城増築

10  項籍     こうそく      (項羽    こうう)  前232〜前202
中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。 垓下歌

唐山夫人 とうざんふじん 未詳
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩<123>古詩源巻二 女性詩560 
安世房中歌十七首(其2) 唐山夫人 漢詩<124>古詩源巻二 女性詩561
安世房中歌十七首(其3) 唐山夫人 漢詩<125>古詩源巻二 女性詩562
安世房中歌十七首(其4) 唐山夫人 漢詩<126>古詩源巻三 女性詩563 
安世房中歌十七首(其5) 唐山夫人 漢詩<127>古詩源巻三 女性詩564
安世房中歌十七首(其6) 唐山夫人 漢詩<128>古詩源巻三 女性詩565
安世房中歌十七首(其7) 唐山夫人 漢詩<129>古詩源巻三 女性詩566
安世房中歌十七首(其8) 唐山夫人 漢詩<130>古詩源巻二 女性詩567
安世房中歌十七首(其9) 唐山夫人 漢詩<131>古詩源巻二 女性詩568
安世房中歌十七首(其10) 唐山夫人 漢詩<132>古詩源巻二 女性詩569
安世房中歌十七首(其11) 唐山夫人 漢詩<133>古詩源巻二 女性詩570 
安世房中歌十七首(其12) 唐山夫人 漢詩<134>古詩源巻二 女性詩571
安世房中歌十七首(其13) 唐山夫人 漢詩<135>古詩源巻二 女性詩572
安世房中歌十七首(其14) 唐山夫人 漢詩<136>古詩源巻二 女性詩573
安世房中歌十七首(其15) 唐山夫人 漢詩<137>古詩源巻二 女性詩574 
安世房中歌十七首(其16) 唐山夫人 漢詩<138>古詩源巻二 女性詩575 
安世房中歌十七首(其17) 唐山夫人 漢詩<139>古詩源巻二 女性詩576 
11 虞美     ぐび 未詳〜前202
秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。
虞美人歌  秦末・虞美 詩<118>古代 女性詩 555
虞美人歌 (漢兵已略地)
前漢  前202〜 8   前154 呉蘇七国の乱





12 王昭君     おうしょうくん 生没年未詳
中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題材となった。怨詩
怨詩 王昭君 漢詩<110-#1>U李白に影響を与えた詩545 
怨詩 王昭君 漢詩<110-#2>U李白に影響を与えた詩546 
13 漢高祖    かんこうそ   (劉邦    りゅうほう)  前247〜前195
(漢) 劉邦、字は李、沛の豊邑中陽里(江蘇省沛県の東)の人。初め泗水の亭長から兵を起し、楚の項羽と呼応して秦を破り、漢中玉に封ぜられたが、鴻門の会の後、羽と覇を争い、ついにこれを垓下に破り、天下を平定し、長安に都して帝位に即き、在位十二年(前206-前193)で卒した。諡はなかったが、漢国の太祖で功が高かったために高祖と称せられた。その作として存するもの「大風歌」の外に「鴻鵠歌」がある。 大風歌

韋孟 いもう 前228-前156
(漢) もと、彰城(江蘇省銅山県)に住む。楚の元王の傅となり、ついでその子の夷王、さらに孫なる戊王の傅(もりやく)にもなった。
戊は荒淫無道で、道にしたがわぬので、韋孟は詩を作って諷諌した。のち、位を去り、家を魯国の雛にうつし、また一篇を作る。後、そこで卒した。(文)
諷諌詩

司馬相如 しばそうじょ
紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。 賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓氏との恋愛も有名である。 長門賦  喩巴蜀父老檄  難蜀父老文  上書諫獵  哀秦二世賦  大人賦  封禪文  梨賦  魚?賦  梓桐山賦  題市門  報卓文君書
 14 枚乘     ばいじよう.  前220-前140
枚乘 ( ばいじよう ). 枚乗(?-前140)。漢の時代、淮陰(わいいん=現在の江蘇省淮陰県東南)の人。字(あざな)は叔。初め呉王劉助Aに仕え、上書して諌めたが納れられず、 去って孝王劉武に仕えた  
 15 東方朔 (とうほう さく) 前154- 前92年
東方 朔(とうほう さく、紀元前154年 -紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。詩仙として有名な李白は彼のことを「世人不識東方朔、大?金門是謫仙」といって彼を褒め称えた。  
 16 漢-武帝(劉徹) りゅうてつ 前156〜前87
前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。 秋風辭
 17 劉細君  (りゅうさいくん ) 生没年不明:
;字:前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がされ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) <108>U李白に影響を与えた詩542 
悲愁歌
 18 李 陵 (りりょう) 未詳- 前74年
中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。 與蘇武詩 別歌 與蘇武詩其二 ;詠懷詩 其十
 19 蘇武   そぶ   (蘇 子卿    そしけい)  前140〜前60
(漢) 蘇武、字は子卿、杜陵(長安の東南)の人、一に京兆(長安の東)の人ともいう。武帝の天漢元年(前100)中郎将として匈奴に任して捕えられ、降服をせまられて、あらゆる虐待を受けた。
土牢に入れられて、飲食を給せられなかったり、北海のほとり無人の地に移されて、牡羊が子を産んだら帰国を許すといって、羊を飼わせられたりしたが、武は野鼠を掘ったり、草の実をとって食ったりして、つぶさに苦しみをなめ、しかも起臥常に漢の節旄を持して忠節を全うした。その友李陵は早く降って、武にもしきりに降服を勤めたが、ついに従わなかった。匈奴に留まること十九年、天子が上林苑中に射た雁の足に結んだ帛書から、その生存が知られ、帰還することができたと伝える。始め使する時強壮であった武も、還るに及んで髪髪はすっかり白かったという、功によって典属国(蛮夷南国を掌る官)に拝された。武の作として今伝わるもの文選に見える四首の詩のみである。(文)

詩四首
骨肉縁枝葉
黄鵠遠別
結髪為二夫妻
燭燭農明月

燕刺王旦     えんしおうたん     燕刺王旦 未詳―前80



華容夫人     かようふじん 未詳―前80
 武帝の子で長子であ理ながら位につけず、少子が昭帝となったのを怒り廃位を謀ったが失敗、自害する。その死の前に歌った時、華容夫人もたって舞い、詩を詠った。歌 華容夫人 漢詩<140>古詩源巻二  

昭帝      しょうてい      昭帝  前94―前74


37 班?、 はんしょうよ      (ul)   生没年不詳
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。
怨歌行 班?、(ul) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547
怨歌行   怨詩(新裂齊?素)

趙飛燕 ちょうひえん 生没年不詳
歸風送遠操 趙飛燕 女流<112>玉台新詠集 女性詩 548 






楊ツ ようくん 未詳―前54




 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263



前202-220


 ;   8〜23
新(8年 - 23年)…外戚の王莽が前漢皇帝から帝位を簒奪し建国。
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
21 卓文君(たくぶんくん) 未詳
前漢の蜀(しよく)の富豪の娘。文人の司馬相如(しようじよ)と知り合い、成都に駆け落ちして辛苦をともにした。のち相如が心変わりした際、「白頭吟」を作って決別の意を示した。後世、戯曲などの題材とされる。
白頭吟 卓文君 <109-#1>U李白に影響を与えた詩543
白頭吟 卓文君 <109-#2>U李白に影響を与えた詩544 
白頭吟(皚如山上雪)
22 楊雄 (ようゆう) 前53〜 18年
 蜀郡成都の出身。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて文学を捨てて修学して多くの著作を行ない、『楊子法言』は『論語』に、『太玄経』は『易経』に倣って作られた。好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。王莽の簒奪後、門弟が符命の禁を破ったために自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。  

馬援     ばえん 前14−49


23 班彪     はんひょう  A3〜54
 扶風郡安陵(陝西省咸陽市区)の出身。字は叔皮。名儒として知られ、王莽の敗死で長安が混乱すると安定に移ったが、隗囂に失望して竇融の幕下に加わると師友の礼を執られ、その章奏は光武帝からも嘉された。『史記』の欠を補うと称して『史記後伝』数十篇を著し、未完に終わったこの書は、後の『漢書』の基礎となった。班彪(はん ひょう、3年 -54年)、字は叔皮。後漢の歴史家。祖父の班况は成帝の時代に越騎校尉に任じられて、父である班稚は哀帝の時代広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭がいる。
班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の儒家の子として生まれる。前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けていた。その後光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。『後漢書』に列伝が掲載されている。
 

 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263



■ 後漢
 後漢(ごかん、25年 - 220年)は中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は?陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

前202-220
前漢 前202〜8
 8〜23
 184〜280
 222-280
 221〜263

ID 詩人名  よみかな/ 事項 作品名

 後漢  25〜220

班固  はんこ 32-92



31 李延年 りえんねん  (生没年不詳)
前漢の人。漢の武帝に仕えた楽人。妹は武帝の寵姫李夫人だが彼女の死後李延年への寵愛も衰え、武帝は李延年や兄弟、宗族を誅殺した。 歌(北方有佳人)

張衡   ちょうこう    (張平子   ちょうへいし) 78-139
(後漢) 張衡、字は平子、西鄂(河南省南陽県付近)の人。若くして善く文を作り、博学で特に天文術数にくわしく、安帝の時太史令となり、渾天儀や侯風地動儀を作ったという。後に河間の相となり、また尚書を拝した。彼は科学と文学とを兼ねた作家で、当時盛行の図?説に反対し「周官訓話」を著わし、「東観漢記」を補った。作る所の辞賦は文選・古文苑・百三名家集などを検すれば三十編余りに及んでいる(隋書経籍志には、集十一巻を録する)が、とりわけ「東西二京賦」が有名で、苦心経営十年の日子を費したといわれる。「四愁詩」四首は、彼の辞賦が創意の乏しいのに比して、格調は新しく、情感は真摯、文辞また婉麗を以て称せられる。(文) 四愁詩四首
 黄巾の乱 184 〜 185頃
  三国志の歴史が幕開けしたきっかけは、中平元年(184)に突如勃発した黄巾の乱でした。約四百年あまりもの長きにわたり中国の大地を支配してきた漢王朝、しかしこの時代には、宦官による専制政治、民衆に課せられる重税、加えて旱魃(かんばつ)・疫病・凶作といった天変地異が重なって、民衆は苦しみのどん底をさまよっていました。

 太平道の教祖・張角は、ここに目を付け、各地の流民を呼び集めて黄巾賊を結成しました。「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし」、後漢王朝の時代は終わり今こそ我ら民衆が立ち上がる時だ、張角はこう主張したのです。このスローガンは苦悩の日々を過ごしてきた民衆の間で爆発的なヒットとなり、中国各地で黄巾の乱が勃発。瞬く間に巨大な勢力になっていきました。

  後漢打倒のために立ち上がった黄巾賊、しかしながら、彼等の当初の目的はいつの間にか消え失せていったのです。気が付けば、彼等は各地の町村を襲って強盗略奪を繰り返す暴徒となっていました。人々は更なる事態の悪化に混乱をきたし、中国の大地に大いなる暗雲が垂れ込んだのです。
32 張角(ちょうかく)  〜184
中国、後漢末の道士。鉅鹿(きょろく)(河北省)の人。太平道の教祖で冀州鉅鹿(現在の河北省平郷県)の人。黄老の道を説いて太平道を創始。184年、数十万の信徒を従えて黄巾(こうきん)の乱を起こしたが、病没。張角らの一党は「黄天」すなわち黄色をイメージカラーとし、黄色い布を頭に巻きつけた為「黄巾賊」と呼ばれた。張角が起こした反乱を「黄巾の乱」と呼ぶのはこれが由縁である。 蒼天已死
33 蔡邑(さいよう)  (132 -192)
後漢代の政治家、儒者、書家。清廉潔白な人物で、宦官に嫌われて官職を追われたこともある。董卓が後漢王朝の実権を掌握したとき、董卓に気に入られ侍御史治中、尚書、侍中、左中郎将と異例の昇進をした。彼は歴史家でもあり、後世に評価される史書をいくつも書き残している。王允が董卓を誅殺したとき、その死を惜しんだため、それを怒った王允によって殺害されたという。 ・翠鳥 諸葛亮 ・梁甫の吟 馬良 ・白眉
34 趙壹(ちょういち)  卒年不詳
字元叔,主要事迹見於漢靈帝年間(168年一189年),東漢漢陽郡西縣人(今山西省禮縣大堡子山東)。中國辭賦家、書法評論家。其代表作《刺世疾邪賦》直抒胸臆,對後世賦體的風格有很大影響  
35 禰衡(でい こう、;ねい こう)  173−199年
禰 衡(でい こう、あるいは「ねいこう」とも、173年−199年)は、中国後漢末期の人。字は正平。平原の人。  

 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263



三国時代への道

前202-220
 184〜280
 222-280
 221〜263

1.官渡の役(200) 曹操と袁紹の、華北支配を巡っての決戦。曹操による青州黄巾軍の接収と、199年の袁術の病死と公孫?の敗死、遼東公孫氏の袁紹への服属などによって、華北では4州を領する袁紹と、天子を擁して2州を支配する曹操の対決が不可避となった。袁紹は全軍を動員して官渡に南下し、十倍近い兵力で曹操を圧倒したが、内訌の放置と糧道の軽視で対峙数ヶ月の後に糧秣をことごとく焼かれて惨敗した。袁紹はついに再起できず、曹操はこの勝利によって華北に覇権を確立した。


2赤壁の戦い(208)   天下統一を図る曹操と、江東を死守する孫権の戦い。劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑(江西省九江市区)に拠る孫権と同盟して曹操に対抗した。
 曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。この一戦で曹操の天下統一は頓挫し、孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の形勢がほぼ定まった。 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主だった将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。
ID 詩人名  / 事項      よみかな 作品名
36 関羽 かんう (?〜219)
中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。 無  題










38 梁鴻 こうりょう 生没年不明:
後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である 五噫歌

答詩一首 秦嘉妻徐淑

王昭君歎二首 其一 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) <114-#1>玉台新詠集 女性詩 551
王昭君歎二首 其二 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) 女流<115>玉台新詠集 女性詩 552 




 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263


3.建安文壇の文学者
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応よう・劉驕E阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応きょ・蔡えん・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。 
ID 詩人名  / 事項 よみかな
39 1)孔 融     (こう ゆう) 153年 - 208年
(後漢)後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。  雑詩
40 2)陳 琳    (ちん りん)   - 217年
(後漢)後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。 飲馬長城窟行
易公孫?與子書
41 3)王 粲    (おう さん) 177年 - 217年
(後漢)中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。 登樓賦
公讌詩
詠史詩
七哀詩三首
從軍詩五首
贈蔡子篤詩
42 4)徐幹    (とかん)   - 217年
 北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。 室詩
雑詩
43 5)応湯     おうとう   未詳〜217
  字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。 侍五官中郎建章臺集詩
別詩
44 6)劉 驕@ りゅうてい   (劉公幹)  170 - 217年
(魏) 劉禎、字は公幹、東平(山東省東平県東)の人。父の梁(字は曼山)もまた文才があった。曹操に召されて丞相掾属となった。辞旨巧妙で諸公子に親愛された。かつて曹丕の宴に招かれて甄夫人に会い、列坐みな伏して拝したのに、彼独り平祝して伏さなかったので、曹操から不敬の罪に問われたが、重くは責められなかった。七子の一人で、常に王粲・孔融らと親しく、その詩風は典論に「壮にして密ならず」と許された。作る所の詩賦数十
編、今存する詩は十五首、詩経の影響を受けること多く、文選に収めたものは彼の代表作とするに足る。隋志には、集四巻。  後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)
贈従弟三首
45 7)阮禹     (げんう)    〜212
 陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。  
46 王炙    おうえん(王仲宣     おうちゅうせん) 177〜217
後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。十七歳で黄門侍郎に任ぜられたが受けず、荊州に赴いて劉表にたよったが、風采があがらないので重く用いられなかった。劉表の卒後、曹操に召されて丞相橡となった。時に三十二歳。ついで軍謀祭酒となり、関内侯の爵を賜わった。魏の王朝となってから侍中に拝されたが、征呉の軍に従って道中に病死した。
彼は記憶力強く、博学多識、詩文に巧みなばかりでなく、算学にも長じた。文を作るに筆を挙げれば直ちに成り、改めなかったという。特に辞賦に秀で、建安七子中の第一人者であった。集は十一巻あったが、今存する詩は二十六篇で、その「七哀詩」は代表的傑作である。
登楼賦  公燕詩  詠史詩  七哀詩二首
贈蔡子篤詩
贈士孫文始
贈文叔良
従軍詩五首
雑 詩

4.桃園の誓い
 豕県(たくけん)・楼桑村。この小さな村に、草鞋を売って生計を立てている一人の男がいた。彼の名前は劉備玄徳。漢の中山靖王・劉勝の末裔、景帝の血を引く由緒正しい人物です。彼は黄巾賊の暴挙に強い反感を抱きながらも、自分の力のなさに嘆いていた。そこに幽州の太守・劉焉(りゅうえん)が義軍募集の高札を掲げた。それは官軍(後漢王朝の軍隊)の力では、もはや黄巾賊の暴挙を抑えることができないということを意味していた。この高札を前に劉備が義軍入隊について躊躇していると、後ろから張飛と名乗る巨漢の人物が劉備の自信のなさに大喝。劉備は何かから目覚めたように、義軍への参加を決意したのです。張飛の兄貴分であった関羽と共に、劉備は彼の桃園で義兄弟の契りを結んだ。劉備が長兄、関羽が次兄、そして張飛が末弟。劉・関・張三兄弟がここで固い意志と野望で結ばれた。 

5.黄巾の乱の終焉
 劉備は義兵を結成すると、直ちに劉焉のもとに駆け付けました。同じ劉一族と知った劉焉は、劉備の来訪を歓迎、義理の甥として扱いました。そうこうしている内に劉備の仕事がすぐ舞い込んできました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治でした。ここで劉備は関羽・張飛とともに一斉攻撃を仕掛け、敵将・程遠志を討ち取ります。その後も青州城の救援や河南の決戦などで獅子奮迅の活躍を見せ、遂には黄巾賊の副頭領である張宝を倒し、官軍を勝利に導きました。もう一人の副頭領・張梁も官軍の皇甫嵩ならびに曹操の攻撃を受けて戦死。病を患っていた張角も大いなる失望に倒れ、ここに黄巾の乱は幕を閉じました。劉備玄徳は二十三歳の若さでその名を天下に轟かせた。 

6.劉備の苦悩
 黄巾の乱を平定した官軍の将たちは、続々と都・洛陽へ凱旋し、武勲を挙げた皇甫嵩・曹操らは霊帝より高位高官を授かりました。義軍の劉備たちには何の沙汰もありませんでした。十常侍は義軍上がりの劉備たちに官位を与えるのを躊躇いましたが、とりあえず中山府安喜県の県尉という小さな役職を与え、劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴きましたが、賄賂をせがまれましたが、劉備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否、これで帝に反することになってしまった劉備は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになった。劉備らが旅中、突然官軍の一隊に出くわした。その軍を率いていたのは公孫贊(こうそんさん・北平の太守)でした。劉備とは旧知の仲で、劉備も彼を兄貴分として慕っていた。公孫贊は劉備の不遇を哀れみ、旅先で劉備たちが倒したという盗賊が手配中のものであったのを上手く利用し、督郵への非礼を赦免させ、平原県の県令という官職を推挙させました。劉備は彼に深く感謝して別れ、直ちに任地へ赴いた。 

7.何進の優勢、十常侍の劣勢
 一方、都・洛陽ではある異変が起ころうとしていました。霊帝が危篤状態に陥ったのです。霊帝には二人の妃がいて、名を何太后と王美人といいました。そして、その二人ともが霊帝との間に子供を持っていました。しかし、自分の息子である弁皇子を次の帝に即位させたい何太后は、王美人を毒殺。その子・協皇子を霊帝の生母に預けさせたのです。これにより宮中では、何太后の兄である何進(かしん)の権力が一気に増し、洛陽の取締役である大将軍に抜擢されることになったのです。それはさておき、霊帝の余命はもはやいくばくもありません。その霊帝の最後の願いが、協皇子を次の帝にすることでした。ところで十常侍は、最近の何進の勢いが面白くありませんでした。さらに、もしも弁皇子が次期皇帝に即位すれば、何進の権力は増大するばかりです。これを危惧した十常侍は、何としてでも何進の権威を失墜させたかったのです。そんな最中に霊帝の危篤。十常侍はここぞとばかりに霊帝に進言しました。「協皇子を次の帝に即位させるためには、後顧の憂いを絶つために何進の暗殺が必要です」と。霊帝には、もはやそれを画策する気力は残されていませんでした。よって、十常侍は極秘裏に何進暗殺計画を企んだのです。しかし、この情報はいとも容易く何進の密偵に知られ、激怒した何進は霊帝崩御と同時に十常侍および宦官誅滅を掲げて宮廷に乗り込みました。こうして、蹇碩(けんせき)ら何進暗殺を企てた者は全員殺されました。しかし、十常侍の一人である張譲は必死で何太后に命拾いを嘆願。何太后はこれを了承し、これ以上の殺生は無益だと何進に忠告しました。何進はこれを承諾し、張譲は命拾いをしたのです。こうして、弁皇子を少帝として即位させた何進は宮中の全ての権力を手に入れた。

曹操の台頭
 しばらくするとまたもや張譲らが何進の権威失墜を目論んで動き始めたのです。怒った何進は今度こそ全員抹殺をしようと試みましたが、何太后に十常侍にはこれ以上手をかけないと約束してしまったため、各地の豪族に使者を送り、宮廷に乗り込んで残りの十常侍を殺害するように命じたのです。しかし、その最中に何太后が何進に話があると使者をよこしました。曹操ら配下の将は、これは十常侍の策略に違いないと進言しましたが、何進は十常侍をなめてかかって聞かず、結局、曹操・袁紹率いる精鋭を引き連れて、何進一人宮廷の中に入っていきました。当然、これは十常侍の策略でした。何進は張譲らによって謀殺され、首は曹操らのもとに送られました。張譲は曹操らに万事終わったので、軍を撤退させるよう命令しました。しかし、曹操はこうなることを見越して精鋭を引き連れてきたのです。曹操は張譲の命令を無視して、十常侍と宦官の撲滅を今度こそ果たすよう全軍に伝え、宮廷に攻めかかりました。老若男女二千人あまりが殺され、十常侍もことごとく討たれました。張譲は少帝と陳留王(協皇子)を連れて宮廷から逃走しましたが、追手の攻撃を受け入水自殺。少帝と陳留王は、何進の使者から事情を聞いて西涼から上洛してきた董卓の軍勢に警護されて、無事宮廷に帰還しました。こうして、十常侍と何進をめぐる争いに終止符が打たれた。 

31. 徐嘉妻徐淑     じょかのつま じょしゅく 未詳(174年頃在世)
夫秦嘉の詩に対して徐淑が返した詩で兮をはさんだ五言の形式ではあるが雰囲気だけの五言詩である。
答詩一首 秦嘉妻徐淑 女流<113-#1>玉台新詠集 女性詩 549 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1464
答詩一首 秦嘉妻徐淑 女流<113-#2>玉台新詠集 女性詩 550 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1467
答詩一首

応徳l  おうとくれん     (応蕩    おうとう) 170-217
 (魏) 応蕩、字は徳漣、汝南の南頓(河南省項奴県)の人。祖父率・伯父劭は共に漢の儒者で、著述で名高い。彼もまた文学で名をしられた。曹操に召されて丞相掾となり、転じて平原侯(曹植)庶子となり、五官将(曹丕)文学となって終った。彼は朝廷の制度に明らかであり、また建安七子の一人として詩名も高いが、曹丕の「典論」では「和にして壮ならず」と評されている。(文) 侍五官中郎将建章台集詩
雑詩

劉驕@  りゅうてい    
劉驕i?〜217),漢魏間文學家。建安七子之一。字公幹。東平(今屬山東)人。父劉梁,以文學見貴。建安中,劉髞曹操召為丞相掾屬。

50 武帝(曹操)(ぶてい・そうそう) 155年 - 220
後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基
礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称
される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持
ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが
大きく大望を望んだ文体が特徴である。
・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿・蒿里行 ・薤露





やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。

 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263


三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:?巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。

前202-220
 184〜280
 222-280
 221〜263

ID 詩人名  / 事項         よみかな 作品名
51 曹丕・文帝      そうひ・ぶんてい  (曹子桓   そうしかん) 187〜226
三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220〜26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。 寡婦 ・典論
・画餅 ・燕歌行
・善哉行 
・王は驢鳴を好めり

甄后    けんごう 未詳
 河北無極の人。初め袁紹の中子に召されたが後、文帝の夫人になる。後、皇后となり明帝を産んだが、郭后に嫉妬、御門の怒りにあい死を賜った。作品は他の人、諸説ある。 塘上行
52 曹植  そうち     (曹子建   そうしけん) [192〜232]
中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。 沛国?県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、『世説新語』賢媛篇に名を列ねるほどの賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さを合わせ持った、天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともある(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い[4]・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。
七歩詩 ・怨詩行  ・野田黄雀行  ・贈白馬王彪  ・左顧右眄   七哀詩
53 繁欽     はんきん  (繁休伯   はんきゅうはく) 未詳-218
  字は休伯といい,東漢穎川(現河南省禹縣)の人。曾って丞相曹操に主簿に任ぜられる。詩、賦、文章について世に知られる。  定情詩
54 蔡えん    さいえん  (蔡文姫  さいぶんき) 177年- 239年
 後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。
 河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。
 現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。
蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。
悲憤詩
胡笳十八拍
55 繆襲    きょうしゅう  (繆熙伯    きょうきはく) 186年〜245年
字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)〜245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。
 
230頃 竹林の七賢  3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
1)阮籍(げんせき) 2)けい康(けいこう) 山濤(さんとう) 4)劉伶(りゅうれい) 5)阮咸(げんかん) 6) 向秀(しょうしゅう) 7)王戎(おうじゅう)

繆襲  びゅうしゅう    繆熙伯  びゅうきはく 186-245
字は熙伯、東海蘭陵(山東)のひと。才学あって叙述が多い。魏の四世に歴仕した。
克官渡  定武功 屠柳城  戦蛍陽  挽歌   

左延年 さえんねん 未詳
字、里居不明。 従軍行
56 応遽(おうきょ) 190〜252
  字は休l。汝南郡南頓の人。応?の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。  百一首     雑詩
61 1)阮籍     (げんせき) 210〜263
三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。
 阮籍 詠懐詩 、 白眼視    けい康 幽憤詩

・詠懷詩  
・白眼視
・大人先生歌
62 2)けい康     (けいこう) (223〜262)
字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。けい康 幽憤詩    幽憤詩 けい康 訳注篇 ・幽憤詩・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳
63 3)山濤     (さんとう) (205〜283)
字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。  『山濤集』
64 4)劉伶     (りゅうれい) (211〜300)
  またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。  酒徳頌 ・劉伶戒酒
  ・屋室を[巾軍]
衣と為す
65 5)阮咸     (げんかん) (210〜263)
字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。 詠懐詩
66 6) 向秀     (しょうしゅう) (227〜272)
字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。  思旧賦
67 7)王戎     (おうじゅう) 234〜305
字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。 此必苦李


応吉甫(応貞)     おうきつぽ 未詳-269
(晋) 応貞、字は吉甫、応?の子。汝南(河南省)の人。わかい時から才名あり、談論を善くした。魏の正始(240-248)のころ、夏侯玄は名勢甚だ盛んであったが、貞はかつて玄の前で五言詩を作って、その才を認められた。後、官に仕え、武帝の時には散騎常侍にまで進んだ。かれは大尉の筍顕と協力して新札を撰定したが、まだ施行されぬうちに卒した。隋志は、文集一巻を銀する。 (文) 晋武帝華林園集詩
  司馬懿 しばい 179-251
後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。
司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された「讌飲詩」一首のみである。
讌飲詩


 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263



(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。

 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、)であったことからこの名がある。


265〜420
 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。
ID 詩人名  / 事項       よみかな 作品名

傅玄  ふげん     (傅休奕   ふきゅうえき) 217-278
(晋)三国時代から晋にかけての人物。魏・西晋の政治家・文学者・学者。字は休
奕。北地郡泥陽県(現陝西省)の人。傅燮の孫。傅幹の子。傅咸の父。『晋書』本
伝によると、傅玄は「文集百余巻」の他、『傅子』120巻などの著述を残したが、現存
するものはその一部に過ぎない。『三国志』の裴松之注などに残る『傅子』は、傅玄が
司馬昭の側近であったことから、曹爽ら反司馬氏の人士を非難する傾向が強い。『傅
子』詩歌では楽府の詩が多く、女性の感情を詠んだ作品や宮廷の雅楽の歌詞を手が
けている点に特色がある。
短歌行  明月篇  雑詩  雑言  呉楚歌  車遥遥篇  

棗道彦     そうどうげん    (棗拠   そうきょ) 237-287?
(晋) 棗拠、字は道彦、穎川(河南省) の長社の人。晋の武帝の大康(280-289)中に、年五十余歳で卒したと言うのみで、生卒年は詳かでない。容貌が美しく、文辞を善くした。二十歳のころに、大将軍の府に辟され、晩年、太子中庶子にまで進んだ。詩・賦・論、四十五篇を著わしたが、その多くは、戦乱に遭うて亡失した。(文) 雑 詩

傅長虞   ふちょうぐ    (傅咸   ふかん)
(421-465)
(晋) 傅威、字は長虞、傅玄の子。晋の武帝の成寧四年(278)に、父の爵をつぎ、尚書右丞となる。性は剛簡で大節があり、風格は峻整。かつて司隷校尉となっていた時、京都は粛然として、貴戚すら懾伏した。諡は貞。かれは文を属ることを好み、それは綺麗さという点では足りないが、規?の言である。庚純は「詩人の作(詩経)に近い」と歎称した。隋志には、集十七巻。(文)
贈何勧王済詩並序
68 孫楚(そんそ ) 不詳 - 293年
(晋) 中国・魏および西晋の政治家、武将。字は子荊。男性。本籍は太原郡中都
県。祖父は孫資、父は孫宏。子に孫衆、洵(恂とも)、纂。孫に孫盛(洵の子)、孫綽
(纂の子)など。若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周
囲の評判はよくなかった。名門の王済と親しく、王済は大中正(九品官人法に基づき
官職を決める)に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優
れています」と推薦している。40歳を過ぎてようやく魏に仕え、鎮東参軍事となる。司馬
昭の命で呉への使者となった。その後も西晋で石苞の参軍として対呉の最前線にあっ
たが、孫楚は石苞を見下していたので、両者は対立し、石苞は呉の計略もあって謀反
の疑いで後方へ召還された。その後、旧知の扶風王司馬駿の参軍となった。
恵帝の初年に馮翊太守となり、293年(元康3年)死去した。
 征西官屬送於陟陽侯作詩

郭泰機 かくたいき 239-294頃在世
(晋) その字や生卒の年、及び生平の事がらは共に詳らかでない。ただ、河南の人であること、傅咸(239-294)と詩の贈答があるから、咸と同時代であることなどが知られる。けだし、家柄は世々寒素で低く、自らを世にあらわし得なかったと見え、その心情が、文辞に、にじみ出ている。(文)(古) 答傅咸
69 張華    ちょうか    (張茂先   ちょうもせん) 232年- 300年
(晋)三国時代から西晋の政治家。魏、晋に仕えた。字は茂先。范陽方城(今河北
省固安県)の人。晋書に伝がある。妻は劉放の娘。 張華、字は茂先、范陽の方城
(河北省北京付近)の人。幼少で孤となり、貧しく、自ら羊を牧した。学業は優れ、且
つ博く、辞藻は温麗。その「鷦鷯賦」を阮籍が見て、「王佐の才あり」とした。魏の初
め、太常博士に挙げ用いられ、晋に入っても仕えて功績が多い。恵帝が即位してから、
太子少傅に拝せられたが、時あたかも、趙王なる論の変があり、孫秀らに害せられ、三
族の近親までも殺された。卒するの日、家には余資なく、ただ、文書
が凡筐に溢れるほどあっただけであった。かれは、賦のみならず、五言詩を善くし、児女
の情を言うことに長じた。隋志は集十巻を録する。かれは、博覧沿聞であると謂われた
とおり、図讖に通じ、方技の書を多く読み、災祥・異物のことをよく知っていて博物志四
百巻を著して武帝に進めた。武帝はその中の浮擬なるものを削り去り、十巻と為さしめ
た。(文)
壯士篇(天地相震蕩)
勵志詩九首  答何戟@ 情詩二首   雑詩

石季倫    せきりん   (石崇    せきそう) 249-300
(晋) 石崇、字は季倫、渤海南皮(河北省) の人。晋に仕えて荊州刺史に進んだ。航海の商客によって巨富を得、洛陽の西北に豪壮な別荘を営み、金谷園と称した。播岳などの文人と共に貿謎に仕えた。また貴族王憧・羊瑛の徒と豪曹な生活を営んだが、後に賈謐が誅せられるに及んで免官となった。
崇には緑珠という莫娘があったが、これを孫秀に与えなかったために怨みを買って、一門皆殺される不幸にあった。詩を善くし「王明君辞」は最も著名である。(文)
王明君詞

欧陽堅石    おうようけんせき  (欧陽建  おうようけん) 265-300
(晋) 、字は堅石、石崇の甥で、冀州(河北省)の人。才藻は美しくゆたかで、名を九州にほしいままにし、時の諺に、「樹海に赫々たるは、欧陽堅石」という。官に仕え、馮?太守となり、甚だ評判がよかった。時に、趙王倫は権を専らにした。かれは、それを匡正すべく、直々諌めたが、聞き入れられぬので、楚王偉を立てようと考えた。それからは、倫と堅石との間に隙を生じた。堅石は播岳と共に、陰に、推南王允に、倫を誅するように勧めたが、事か洩れ、允は殺され、、堅石も、その母・妻も、皆、倫にとらえられて、斬られた。延が、刑に臨む時作った詩と文は、甚だ哀しくいたましい。(文) 臨終詩

何敬祖     かけいそ   (何劭   かしょう) 236-301
(晋) 何劭、字は敬祖、陳国の陽夏(河南省)の人。武帝とは同年であり、幼い頃からの親交で、即位後はよく用いられ、侍中尚書にまで進んだ。次の惠帝が即位してから、左僕射に遷された。何劭は博学で善く文を作り、近代の事を陳説するに、これを掌に掃すがごとくであった。かれの性が辞書なのは、父の風を受けたものであり、優遊自足、権勢を貪らず、故に、諸王がこもごも争う時、かれはその間に交わり遊び、誰からも怨まれず、害せられなかった。著述には、筍粲や王弼の伝があり、また、奏議などの文章もあって、並びに世に行なわれた。(文) 遊仙詩
贈張華
雑 詩

劉昆     りゅうこん 265-316
中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。「劉昆」と
も呼ばれる。曾祖父と祖父は魏に仕えた劉邁と劉進、父は西晋に仕えた劉蕃でその庶
子。子に劉群(劉羣)、劉遵ら。西晋の安定期には吏僚として、永嘉の乱の戦乱期に
は武将として異民族鎮圧に活躍した。
答盧ェ  重贈盧ェ  扶風歌  

司馬紹統    しばしょうとう    (司馬彪    しばひょう) 240-306
(晋) 司馬彪、字は紹銃、河内の温県(河南省)の人。若いときから篤く学んで倦ま
ず。しかし色を好み、行は軽薄であったので、父なる高陽王の睦は、後嗣とせず。それ
で、彼は、人事に交わらず、専ら学習に励精し、ついに、博く群籍を見て、それを綴集し
た。のち官に仕え、恵帝の末年に卒した。かれは、荘子に注し、また、九州春秋・続漢
書を作った。隋志には、集四巻。(文)
贈山清






束ル  そくせき    (束広微    そくこうび) 265―306頃
博学多才で、特に歴史・有職(ゆうそく)故実・文学に通じた。束広微(261-300)
(晋) 束ル、字は広微、陽平の元城(河北大名県)の人。博学多聞。性は沈退
で、栄利を慕わず、かつて玄居釈を作る。それを張華が見て奇なりとした。後に王
戒に仕え、転じて著作郎・尚書郎などとなる。趙王輪が相国であったとき記室とし
て招かれたが、疾といって辞して帰り、門徒に教授した。卒した時に、元城の市里
では、ために業を廃し、また門生や故人はかれの基側に碑を立てた。かれは、著
作郎たる時に晋雷帝紀・十志を壊した。太康二年(281)、汲郡の不準という人
が、鈍の賽王の墓(あるいは安誕王の家である、ともいう)をあばき、竹書数十車
を取りだした。それは、皆、科斗文字で書かれた紀年・趨天子伝・師春などの書で
あった。ルは、役目がら、それらの竹書を観るを得て、疑わしい箇所を釈き、義証
した。
補亡詩
70 張協 (?〜307?)
(晋)  安平郡武邑の出身。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張
亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機・潘岳と並称された。秘書郎・
中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲
し、叙任を拒んで在野のまま天寿を全うした。
 西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍・左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、
その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とさ
れる。
 雑詩六首
71 潘岳     はんがく    (潘安仁   はんあんに) 247年- 300年
(晋) 西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を
代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主とし
ても知られている。『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼
に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性
達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を
得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。
閑中詩
金谷集作詩
悼亡詩三首
為実証作贈陛機
河陽県作二首
在俵県作二首 
74 左思    さし    (左太沖  さたいちゅう)  250頃〜305頃
(晋) 中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。
容貌はみにくくて、口はおもい。しかし、辞藻は壮麗。交遊を好まず、ただ、閑居を事と
した。構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られ
る。詩では詠史詩にすぐれる。
詠史詩八首
招隠詩二首
雜 詩

左貴嬪  さきひん 275頃在世

啄木詩

張載   ちょうさい    (張孟陽   ちょうもうよう) 289頃在世
(晋) 張載、字は孟陽、安平(河北省)の人。生卒の年は許かでないが、武帝の大
康(280-289)前後に生存していた。性は閑雅。博学で文章の才があり、傅玄はかれ
の作った「濠氾賦」を見て感嘆し、車をやって迎え、終日言談したので広く名を知られる
ようになったという。大康の初め蜀郡太守たる父の牧を省し、途中剣閣を通って銘を作
った。その文を益州刺史の張敏が武帝に上ったので、帝は使を遣わして、その文を剣閣
山に彫りつけさせた。張載は、官に仕えて中書侍郎にまで進んだが、世の乱れのため
に、病と称してやめて帰り、一生を終った。隋志は集七巻を録する。
晋書本伝は、述志の作なる確論一巻があることをいう。
七哀詩二首
擬二四愁詩
75 陸機(りく き) 261年- 303年
永安4年(261年) -太安2年(303年))は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。字は
士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の
登場人物としても有名な陸遜・陸抗。本籍は呉郡呉(今の江蘇省蘇州市)。ただし家
は呉の都であった建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲
間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。七尺もの身の丈を持ち、その声
は鐘のように響きわたったという。儒学の教養を身につけ、礼に外れることは行なわなかっ
た。同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二陸」とも呼ばれる。文弱で親しみやすい弟に
比して、陸機は郷党から畏れられていたが、洛陽に出て西晋に仕えてからは、兄弟とも
に呉出身の人士のリーダー的存在であった。西晋のみならず、六朝時代を代表する文
学者の一人であり、同時代に活躍した潘岳と共に、「潘陸」と並び称されている。特に
「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。また書家としては、
彼の「平復帖」(北京故宮博物院所蔵)が現存する最古の有名書家による真跡とさ
れる。
 楽府十七首
猛虎行 君子行
従軍行 予章行
苦寒行
飲馬長城窟行
門有車鳥客行
君子有所思行
斉謳行
長安有狭邪行
呉趨行 短歌行
日出東南隅行(羅敷堅歌)
前緩声歌
塘上行
贈顧交址公眞  贈従兄車騎  答張士然  為筋彦先贈婦二首  贈番文熊  贈弟士龍
赴洛詩二首  赴洛道中作  呉王郎中時従染陳作  挽歌詩三首  園葵詩
擬古詩十二首
擬行行重行行  擬今日良宴会  擬遥遺牽牛星  擬渉江采芙蓉  擬青青河畔草
擬明月何眈餃  擬蘭若生三朝陽  擬青青陵上柏  擬東城何高  扶西北有高桂
擬庭中有杏樹  擬明月校夜光
76 陸雲 りく うん   (陸士龍    りくしりょう) 262年- 303年
陸雲(りく うん、262年 -303年)は、呉・西晋時代の中国の政治家・文学者である。
字は士龍。祖父・父がそれぞれ呉の重臣陸遜・陸抗で、陸機の弟である。兄機と共に
「ニ陸」と称されるほどの西晋時代きっての文学者であった。6歳で文を能くし生涯に著
した文章は349編に及んだという。16歳で呉に出官するも3年後に呉が晋に降服する
と、兄と共に郷里に蟄居してしまう。以後10年間は学問に励む生活を送ったのち、兄陸
機と共に上洛、晋に出仕する。
温和な性格で、出身地の呉方言をからかわれその度にいきまく負けん気な陸機をなだ
めている。晋皇族の司馬晏の郎中令、尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎、
清河内史などを歴任した。その後八王の乱に巻き込まれ、陸機共々成都王・司馬穎
に殺された。
 谷風  爲顧彦先贈婦二首

王康(王+居)    おうきょ  未詳
(晋?) その官位も居所も、ならびに、まだ詳らかでない、と唐の李善がいっている。(文) 反招隠詩

曹慮 そうりょ    (曹顔遠    そうがんえん) 未詳-308
字は顔遠、礁国(安徽省)。孝行の心に厚く、官に就いて仁政があった。惠帝の末年、?城太守となり、後高密王簡の征南司馬に遷り、流人王囿などと戦って殺された。 感舊詩

王讃(王正長)   おうさん(おうせいちょう) 290頃在世
字は正長、義陽(河南省)の人。博学にして俊才、官は散騎侍郎となって卒した。(古) 雑詩

張協   ちょうきょう    (張景陽   ちようけいよう) 255?−310?
 (晋) 張協、字は景陽、張載の弟で、安平(河北省)の人。生卒の年は、並びに詳かでない。若いときから俊才があり、張載と名を斉しくした。官に仕えて、河閣内史にまでなった。官にあっては清簡寡欲であった。当時、天下はすでに乱れており、どこでも寇盗がはびこったので、協はついに人事を棄絶し、草沢に屏居して、詩を作って自ら楽しんだ。永嘉の初(307)また、黄門侍郎として徴されたが、疾に託して就かず、家居して卒した。隋志には、集三巻。かれの名作なる「七命」は、文選や晋書本伝に引かれる。また、五言詩が多い。(文) 詠史詩
雜詩十首
77 潘尼   はんに    (潘正叔   はんせいしゅく) 約250〜約311
 字は正叔。潘岳の弟。太康年間(280〜289)に秀才に挙げられ、太子舎人・尚書
郎・著作郎などを歴任した。趙王の簒奪で致仕帰郷したが、斉王が挙兵するとその参
軍となり、乱後に安昌公とされた。後に中書令まで進んだが、八王の乱の中ではまった
くの無力であり、永嘉の洛陽陥落で郷里に逃げる途中に病死した。潘尼(約250〜約
311),西晉文學家。字正叔。?陽中牟(今屬河南)人。潘岳?。少有才,與潘岳?以
文章知名。性格恬淡,不喜交遊,專心著述。太康年間,舉秀才。?任尚書郎、著
作郎、中書令。永嘉年間任太常卿。洛陽被劉聰攻破之前,潘尼攜家還?,中途
病卒。《隋書·經籍志》載有“晉太常卿《潘尼集》十卷”,今不
存。明人張溥輯有《潘太常集》1卷,見《漢魏六朝百三家集》。
贈陸機出為呉王郎中令
贈河陽
贈侍御史王元服
迎大駕

張翰   ちょうかん    (張季鷹   ちょうしよう) 258頃―319頃
((晋) 張翰、字は季鷹、張厳の子、呉郡の呉(江蘇省)の人。生卒の年は詳かでな
い。清才あり、善く文を作る。気ままで、ものごとに拘わらず、当時、江東の歩兵といわ
れた。斉王冏に召されて大司馬東曹操となったが、秋風が起こると、故郷の菰菜の、
鯉の鰭を思い、ついに篤を命じて帰った。性は至孝。「首邸賦」など、文章数十篇あ
る。 
雑詩

盧ェ      ろしん    (盧子諒   ろしりょう) 285年−351年
字を子諒という,范陽?縣の人。東漢期の儒學家で盧植玄の孫,西晉の尚書、盧志
長の子。盧ェは西晉の劉?の段匹?にころされたので、段の部下に投じ,後に石季龍に
得られて中書監に至る。後東晉に,冉関が石氏を誅したので戰亂にあって歿した。
答魏子悌  時興詩

郭景純  かくけいじゅん  (郭璞   かくぼく) 276-324
(晋) 郭璞、字は景純。河東聞喜(山西省緯県)の人。経術を好み、博学で、高才があり、詞賦においては、中興の東晋に冠たるものである。かつて郭公に従い、?書を受け、五行・天文・卜筮の術を深く理解した。のち、江南の元帝に仕えて、重んぜられたが、終に王敦に殺された。著書に洞林、また、詩・賦・諌・頌などがあり、その中の「江賦」「南郊賦」は、時人に称せられ、「遊仙詩」十四首は、わけても超逸の風格がある。文集は十七巻。 遊仙詩七首

 前2205〜前1766 前1766〜前1122 ページ先頭
前1020〜前221
西周前1020〜前770東周前770〜前221春秋戦国前770〜前221
前202-220

184〜280
222-280
221〜263


   ページの先頭へ  

  

inserted by FC2 system